「10年10万kmストーリー」アーカイブ(8話〜14話)
いまは無き『NAVI』誌で、1990年3月号から2010年2月号まで、二度にわたって長期連載していた「10年10万kmストーリー」は4冊の単行本にまとめられている。
しかし、まだ収められていないストーリーがたくさんあり、切り抜きを収めたスクラップブックをときどき引っ繰り返してはパラパラやっていると、その後のみなさんの様子が気になってくる。
変わらず元気に過ごしているのか?
まだ乗り続けているのか?
それとも、他のクルマに乗り換えてしまったのか?
目次(読みたい話をクリックしてください)

再掲載をお願いするメールを清野雄一郎さんに送ると、すぐに返信が来た。
それによると、雄一郎さんが乗っていたセフィーロセダンも、父親の満幸さんが乗られていたセフィーロワゴンも、それぞれ2年前と4年前に手放されてしまっていた。
「A33セダンは20万キロを目前にしてエンジンやトランスミッションからのオイル漏れ等のトラブル、故障でやむを得なく手放しました。WA32ワゴンは足回りのヤレに加え、計器類(メーターがすべて動かなくなりました!)、電装部品の故障が目立ち始め、さらに我が家の中で「家族6人で出かけられる車が欲しい!」との声が上がり、当時我が家で一番古WA32が入れ替え対象になりました。そのWA32と入れ替わったのが、C25セレナハイウェイスターです。父以外の家族全員で、半ば強引に車種を決めてしまったような感じでしたが…」
71歳になられた満幸さんはお元気で、セレナハイウェイスターに乗られているそうだ。
「私のA33セフィーロセダンと入れ替わったのが…A33セフィーロセダンです。(笑)またしてもA33、懲りずに買ってしまったのです。“程度のいいセフィーロってないかなあ?”とお世話になっているディーラーの方にお願いしたところ、程度のいい中古車(走行距離はすでに8万キロを超えていましたが…)を見つけていただき、今日に至っております。以前のセフィーロSツーリングは、5MTでスポイラー等がついた「一応」スポーツグレードだったのですが、現在は「20エクシモG」といういわゆる「旦那仕様(笑)」の、ごく普通のグレードです。
このグレードは4ATのみなので、私の心の中の「MT魂」をぐっとこらえつつ、毎日の通勤、ドライブに活躍してもらっています。A33セフィーロ、一言でいえば「本当によくできた車」であると感じています。確かに「華」はないです。最近の新型車と比べ、燃費もそんなにすぐれたものではありません。VDCなどといった最先端の安全装置も付いていません。
しかし、このA33に乗ると、なんとなく安心感があるのです。高速道路、山坂道を走っていても、未だ安心してハンドルを握ることが出来るのです。ドンガラの割によく「走る、曲がる、止まる」ですね。以前、日産自動車がCMコピーで使っていた「あっ、この瞬間が日産車だね。」を感じさせてくれる日産車の1台です。
熱烈な日産車ファンである雄一郎さんは、先日、日産自動車主催の「未体験試乗会」に応募した。会場は横須賀の日産自動車追浜工場にある「GRANDRIVE」。
「私はぜひ一度行ってみたいと思っていましたので、抽選に当たり、ひとり盛り上がっていました。家族は半ば強引に連れていった次第です…」
テストコースで最新の日産車に試乗するという目的と併せて、雄一郎さんにはもう一つ大事な目的があった。
「それは愛車A33セフィーロの“里帰り”です。代々セフィーロは初代の一部グレードを除き、最終型まで追浜工場で生産されていたそうです。追浜工場の駐車場に止めたA33に「久しぶりに帰ってきたけど、どうだ?」と言ってやりたくなりました。会場にいらっしゃった日産関係者の方々と、“最新の日産車”と“里帰りした日産車”の話で盛り上がらせてもらいました。最新の日産GT-R、フーガHV、ノート等などに試乗し「やっぱ、新しい車っていいなあ…GT-R、凄いなあ…フーガHVも速いなあ…」と興奮冷めやらぬ中、帰路、セフィーロのハンドルを握りながら「取りあえず、これでいいかな、まだ…買えないし(笑)」と思う自分がいました」
雄一郎さんのセフィーロは車検を通し、現在走行距離は約14万5千キロ。動かなくなるまで乗るつもりだ。


8話
“技術の日産”に期待している
清野雄一郎さんと日産セフィーロSツーリング(2001年型)
6年 14万7000km
清野満幸さんとセフィーロワゴン25クルージング(1998年型)
9年 13万km
同じクルマをそれぞれ一台づつ、どちらも10万キロ以上乗り続けている親子がいる。
静岡県在住の学習塾講師、清野雄一郎さん(33歳)がセフィーロのセダンに、父親の満幸さん(65歳)はワゴンに乗っている。
どちらも、10万キロ以上だ。
近くだが、それぞれ別の場所に家庭を持ち、クルマを融通し合っているわけではない。こういう親子は、かなり珍しいのではないだろうか。
雄一郎さんにとって、セフィーロは自身で2台目のクルマ。
最初は、中古のブルーバード。11万キロ乗ったところで、オートマチックトランスミッションが1速から3速にギアを飛ばして変速してしまうトラブルが発生し、買い換えを決めた。
「トランスミッションに載せ換えることも考えましたが、おカネが掛かるので止めました」
候補に挙がったクルマは、セフィーロの他、ブルーバード、トヨタ・クレスタ、フォルクスワーゲン・パサート。
どれも、地味な4ドアセダン。20代の若者が、なぜ。
「当時は独身で、スキーに夢中になっていたんです。仲間と一緒に、シーズン中に5、6回は八方尾根や猪苗代などに通っていたから、4ドアは重要な条件でした」
ならば、SUVの方がより好適なのでは?
「SUVは、スキーに行かない時に乗るには大き過ぎるんですよ。日産パトロールやテラノは大き過ぎて、値段も高かった。エクストレイルのような手軽なSUVが当時あったら、考えていたでしょうね」
4ドアセダンだけでなく、その上、5MTという条件も重ねられていた。
「マニュアルは自分で運転している感じがして、楽しい。
オートマは、勝手に動いちゃう感じがして、ダメなんです」
スカイライン・セダンに5MTが設定されていたが、当時のディーラーでは扱いがなく、候補から外れた。
クレスタには4輪駆動版が設定されており、扱っているトヨタ・ディーラーには知人も在籍しており、ちょっと心を動かされた。
「でも、やっぱり“技術の日産”のクルマに乗りたくて。
子供の頃から、何でも頑丈にできていると聞かされてきましたし、日本初や世界初を謳った技術や装備に驚かされたり、笑わされたりしてきましたから。ハハハハッ」
セフィーロは輸出台数が多いだけあって、5人分のヘッドレストや3点式シートベルト、リアフォグライトなどが標準装着されており、安全面での装備が充実していたことが決め手となった。
リアシートの背もたれが分割可倒式であることも、有利に働いた。これならば、ルーフキャリアを取り付けなくともスキー板を積むことができるからだ。実際に経験したことがある人ならばよくわかると思うが、ルーフキャリアなしでスキーを積めると、スゴく得した気持ちになる。


雄一郎さんはスキー行きに万全を期して、寒冷地仕様を注文した。数万円の追加料金で、大容量のバッテリーとヒーター、ヒーテッド・フロントグラス&ミラーが装備される。LSDも追加注文した。
「マニュアルなので、絶対にキャンセルしないで下さいよ」
マニュアルミッションのセフィーロを注文する人などほとんどいなかったので、静岡日産のセールスマンは念を押しながら、雄一郎さんに契約書を差し出した。総額約240万円。ローンを組んだ。
結婚し、ふたりの子供に恵まれた。通勤と休日に使うため、セフィーロには毎日乗っている。両親と一緒に6名で出掛ける時は、奥さんのマーチが出動する。セフィーロが2台揃うことは、ほとんどない。
「歳を取って、眼が悪くなってきたから、運転が面倒臭くなることが増えました。このクルマは運転しやすいのと、荷物が積みやすいのは助かるのですが、最近、ちょっと大きさを持て余すように なりました」
ワゴンのトランクには、ポリタンクが何個か積んである。満幸さんは、富士山の麓へ湧き水を汲みに行く。
「飲んだだけでは水道水との違いはわかりにくいですけど、湧き水でいれたお茶やコーヒーは美味しいんですよ」
2台のセフィーロは、まったくのトラブルフリーだという。何度もふたりに記憶を確めてもらったが、予期せぬトラブルは発生していない。消耗部品を法定点検で交換する程度で済んでいる。
「期待していた通り、しっかりと作られていますよ。頑丈に作られていた頃の日産車です。最近の日産車は、その辺りがわかりません。ティアナなんて、ペナペナでしたから。その上、トップモデル以外のATなんて、いまどき4速ですよ。信じられません」
雄一郎さんは、自分のセフィーロが走行10万キロを越えた時に、ショックアブソーバーを交換した。
「ガラッと変わりました。カーブの曲がり方まで違いましたから」
異音が出始めたセルモーターやエンジンマウントなども交換し、コンディションを回復した。
「節約のために、カーナビやETCなどは自分で取り付けました」
そのために、新型車解説書やサービス技術資料CDなどをヤフーオークションで落札した。車体修復要領書などと併せて、4000円だった。
「子供が小さくて、おカネもないから、簡単に乗り換えられません。ハハハハハハッ。でも、それ以前に、とても気に入っているし、壊れませんからね」
仕方なく乗り続けているのではなく、結果的に、かつて憧れた日産車に乗り続けていることに雄一郎さんは満足している。
一方の満幸さんはといえば、シートがヘタり、ショックアブソーバーの抜け掛かった自分のセフィーロの次を考え始めているようだ。
「眼が悪くなると、ゴルフのパットが入らなくなり、車庫入れが下手になるんです。だから、そろそろ小さなクルマにしたい。ウチはバァバとふたりだから、ミニにでもするかな。この近くにディーラーがあるんですよ」
ミニのように、大人の使用に耐えられる上質な小型車が日本車には少ない。
「ブルーバード・シルフィって、本来のブルーバードとは何の関係もないのに“ブルーバード”を名乗るのは筋が通っていない」
510ブルーバードから日産車を6台乗り継いだ満幸さんよりも、雄一郎さんの方が日産車に思い入れが強くなっていて面白い。
「“技術の日産”なのだから、ハイブリッドもトヨタから技術を購入するのではなくて、独自開発したものを展開して欲しい」
ファンとはありがたいもので、ハイブリッドが難しいのならば、画期的なディーゼルを雄一郎さんは日産に期待している。次世代のパワーユニットと上質な小型車の開発は、日産だけでなくすべての日本の自動車メーカーの課題だ。
『NAVI』誌2007年5月号より転載






●日産セフィーロとは?
1988年に登場した、当時のスカイラインとローレルの兄弟車。したがって、後輪駆動を採用した4ドアセダン。井上陽水が助手席から「みなさん、お元気ですか~」と呼びか けるテレビCFがいろいろと話題になった。1994年に登場した2代目は、マキシマを統合した結果、一転して前輪駆動に変身。欧米やアジアへ広く輸出された日産の世界戦略車となる。2003年に国内向け生産は終了し、ティアナが後を引き継いだ。メカニズムも、キャラクターもコロコロと変わる、日産らしいクルマだった。雄一郎さんのSツーリングが2リッターV6のVQ20DEエンジンを搭載しているのに対して、満幸さんの25クルージングは2.5リッター版のVQ25DEを積んでいる。

9話
200足と1台
大瀧安宏さんとアウトビアンキA112アバルト(1983年型)
25年 7万km


次に来たメールには、以下のように記してあった。
「先日、クルマ屋さんの勧め(車齢)もありタイヤサイズをオリジナル(135/80/13)に替えました。 車を購入してから3~4年位はオリジナル(135/82/13)で乗っていましたがその後165/65/13を2回ほど履き、その後はずーっと155/70/13で過ごしておりました。 今回オリジナルに戻し、たかが2㎝、されど2㎝、やはり細い!!
フロントはともかくリアがかなり細く見えます(まあ慣れるでしょうが)。
取材して頂いたかなり前より、特に高速走行後の渋滞等でパーコレーションが顕著だったのですが、その頃はそれをやり過ごし、空ぶかしを加えていれば元に戻っていたのですが、ここ数年、ほんの少しエンジンが熱くなっただけでパーコレーションが酷く出て、それはもうロデオ状態になってました。
特に今年になってからはどんどん悪化し、4月の車検の際2か月程預けて様子をみてもらい、クルマを引き取った帰り道、人生初の三角表示灯&レッカーのお世話になりクルマ屋へUターン。
預けている間はそこまで酷い状態はなかったそうで、その後電磁ポンプを装着。
今は健康体を取り戻しています(と信じたい)。 車検の度に“どこまでやりますか?”と聞かれますが、ここがヒジョーに難しい所に来ていると思います。
来年で30年になりますが、僕と共に老いてるため、僕にとっては乗り心地、加速、ギアシフト等全く変わらないのですが・・・。
まあ前述のパーコレーションでかなり乗る頻度を少なくしていましたが、これからはもう少し頻繁に付き合っていきたいと思っております」
スニーカーの数は、あれから増えているのだろうか?
大瀧安広さんにメールを差し上げると、「再掲載は急ぎますか?」と返信が来た。もうじきタイヤをオリジナルサイズに戻すので、せっかくだからその画像を撮って送りたいという要望だった。





世界の自動車を網羅した年鑑が日本で発行されなくなって、ずいぶん経つ。かつてはニ玄社だけに限らず、朝日新聞社やモーターマガジン社などからも発行されていたのに、いまではみんな止めてしまった。
アウトビアンキA112アバルトを25年間で7万キロ乗り続けている大瀧安宏さん(49歳)も、中学生の頃からそうした年鑑を楽しみにしていたひとりだ。
「毎年、学年末試験が終わる頃に出ていたモーターマガジン社の『世界の自動車』を見て、初めてこのクルマを知りました。まとまったカタチが気に入って、好きになりました」
大学に入学し、1979年の春休みに、大瀧さんはヨーロッパを旅行する。ミュンヘンの知人宅をベースにあちこち回りながら、開催中だったジュネーブ自動車ショーを見学に出掛けた。
「いろんなクルマを見ることができましたが、強く印象に残ったのがA112アバルトとランチア・ベータHPEでした。ベータHPEも魅力的でしたが、現実的に自分が手に入れることができそうなのは、もちろんA112でしたから」
クルマも好きだったが、ファッションにも自分の好みを強く持っていて、スニーカーやジーンズを通して外国への憧れを具現化していた。この旅では、“本場の”アディダスを20足も買ってきた。
帰国後、東京杉並の自宅近くのホーク総業という業者がA112アバルトを輸入し始め、すぐに見に行った。
「でも、200数十万円という価格は、学生には非現実的でした」
しかし、スポーツ用品販売会社に就職してすぐに、JAXが189万円という価格で売り始めた。
「新人サラリーマンに、数十万円の違いって大きいですよね。グッと自分の中で現実味を帯びてきて、尾山台まで買いにいきました」
A112アバルトを購入すると、夢中になっていたウインドサーフィンを屋根に積んで、毎週末、湘南海岸や富士五湖に通った。当時のマストは二分割できないから、ボディから前後に長くはみ出してしまう。鎌倉の交番の前で警官に停められ、はみ出し部分がボディ全長の10パーセントを超えていたために、違反切符を切られ、5000円の反則金を支払った。
早朝に杉並の家を出て、湘南の場合には午前9時に開く駐車場の前に並び、車内で仮眠を取るというパターンが続いた。しかし、風と波が良くなければ、一本も乗らないで帰ってきてしまうこともしばしばあった。「“そんなのレジャーじゃない”って納得できなくなってきたんですね」
大瀧さんも奥さんも、都内の会社に勤めていたが、意を決して、湘南に引っ越してきた。通勤に1時間30分掛かることになるが、ふたりの共通の趣味を優先することにしたのだ。
「こっちに引っ越してきてからは、ボードに乗る本数は、むしろ減っています。風と波がいい時だけ、歩いて出掛けていけばいいですから」
最初に住んだ江ノ島に来た95年に、A112アバルトの距離計は5万キロを刻んでいた。最近、7万キロを超えたばかりだから、クルマの距離も伸びていない。途中、アルファロメオ164Q4を買い足し、新車から4年間で2万5000キロ乗ったことを差し引いても、あまりクルマに乗らなくなってしまった。
「この辺は駅にも近く、毎日クルマに乗らなくても困らないですからね」
大瀧さんは、A112に乗り続けている理由を、“使い切れる性能”にあるという。
「3速で、4000から5000回転ぐらい回して走っている時が、一番楽しい。野太いエンジン音、クイックかつダイレクトな運転感覚。実感がある。クルマだけで走っているのではなくて、“自分の仕事”ができる。ドライバーの役割をこなせるんですね。164Q4の本当にいいところは、120km/h以上じゃないとなかなか味わえないですから」


数年前にも、アウディのキャンペーンに当選して、S4を2週間預かって試乗したことがあった。
「トルクが太くてフラットだから、6速マニュアルのギアが何速に入っていても関係なく加速していくのがツマらなかった」
A112アバルトはヒドいトラブルに悩まされることもなく、走り続けている。ラジエーターホースからの水漏れや、シフトリンケージに付属するプラスチック部品が破損してギアが入らなくなったことぐらいだ。どちらも、自分で応急措置を施して、JAXへ持ち込んだ。
「あの頃のJAXは、店全体がアットホームな雰囲気で良かった。突発的なトラブルで持ち込んでも、すぐに直してくれたし、待っている間に、デモカーを試乗し放題。フィアット・リトモ130TCのエンジンのトルク感とトルクステアには驚かされました。同じように、125TCやレガータ、パンダなんかにも乗せてもらいました」
試乗しにディーラーに赴くことが、最近減ってきた。
「でも、グランデプント・アバルトには興味ありますね。NAVIに載っていたSSが気になる。運転したら、面白そうじゃないですか」
とは言っても、A112アバルトには乗り続けるつもりだ。電気系やエキゾースト系が気になるところだ。ここ数年は、25~26万円を費やして車検を通している。
「これ以上、費用が掛かるようならば、乗り換えを考えますけど、僕たちの暮らしぶりに合っていますから、換える必要を全く感じません」
奥さんとペルという名前の猫と暮らす大瀧さんは、好きなものに囲まれて生活している。無理をしている感じがなく、正直なところがうかがえる。
「クルマだけじゃなくって、“モノ所有欲”が強いんですね。だから、スニーカーも捨てられないんです」
西ドイツでアディダスを20足買う前から履いていたすべてのスニーカー約200足を、大瀧さんは持っている。いつでもすぐに履けるように棚に収めてあり、ソールの発砲ウレタンが化学変化を起こしてポロポロと落ちてくるようになったものまで、きちんと箱に保存してある。A112アバルトのドライバーズシートからも、スニーカーのように硬化した発砲ウレタンが粉になってシートの中から床に落ち始めている辺りは、ちょっと心配だ。
アバルトのロゴが大きくプリントされたTシャツや作り掛けのA112アバルトのプラモデルまでも、大事に取っておいてある。
A112アバルトは、大瀧さんにとって生涯2台目のクルマだ。さすがに、最初に乗った初代ホンダ・シビックはもう持っていないが、クルマに求めるものは変わらない。昔のものばかりなのに古臭く感じないのは、笑顔だけでなく、大瀧さんと奥さんにはずっと好みを貫き通してきている清々しさが漂っているからだろう。
『NAVI』誌2008年3月号より転載



●A112アバルトとは?
消滅してしまったアウトビアンキ社から1969年に発売された小型車A112の高性能版。アバルトは71年に発表され、スポーツ/レーシングコンストラクター「アバルト」の名前が冠されたのは、両社の共同生産計画が存在していたためだ。横置きした1・1リッター4気筒エンジンによって前輪を駆動する。アバルトのブランドネームと、独自のグリルと黒塗りボンネット、2本出しマフラー、ステアリングホイール、シートなどの演出によって、スタンダードのA112とは異なった雰囲気を醸し出すことに成功している。大瀧さんのように、そのスポ ーティな運転感覚とルックスに魅せられたファンは、当時は多かった。
10話
アメ車好きの赤ヒゲ先生
田中英一さんとクライスラー・グランドボイジャーLE(1998年型)
9年 15万km
田中英一さんに5年半ぶりに連絡したのはFacebookのメッセージを使ってだった。「お知り合いでは?」と促され、友達になっていたのだ。
さっそくヴォイジャーのことを訊ねると、2007年3月の取材の1年3カ月後に残念ながら廃車されてしまっていた。
「ボイジャーは16万キロを越えるまで頑張ったのですが、エアコンが壊れ、2008年6月に廃車となりました。犬が暑さに弱いので、もう限界だと考え、2007年の11月頃にプリウスを購入しました。プリウスを購入したのもムーンアイズの菅沼社長にいつも燃費の悪い車ばっかり乗ってるんだから、足車くらいは燃費の良い車にしなよと言われ、プリウスにしたんですが、そのプリウスも先月二度目の車検で、9万4千キロを越えました。(笑)」
インターネットが発達したおかげで、メールやFacebook、twitter、最近ではLINEなどのSNSなどによって以前に取材させていただいた人に近況を訊ねやすくなったのはとても助かる。
田中さんはご自身の自動車生活ともに格闘技選手へのサポートとその交流ぶりをFacebookに頻繁に更新してくれるので覗かせてもらうのが楽しみだ。



ミニバンを購入する動機のほとんどは子供によるものだ。
子供と一緒に遠出をしたり、アウトドアスポーツを楽しむのにミニバンの広い車内はなにかと便利だし、都合が良い。
神奈川県で歯科医院を開いている田中英一さん(43歳)も、クライスラー・グランドボイジャーLEを購入したキッカケは、やはりふたりの息子たちにあった。それまでフォルクスワーゲン・ゴルフワゴンに乗っていた。
「ケンカばっかりしていた息子たちを引き離すのに、セパレートシートが好都合でした」 グランドボイジャーの2列目シートは、左右シートが独立し、間が通路となっている。キャプテンシートとも呼ばれるタイプだ。
「ゴルフワゴンでは、“シートのこの線からこっちへ来るな”とかって、息子たちはよくモメていましたから。ハハハハハハッ」
自我が芽生え始めた小学生は、学校の机などでも自分の領域を主張し始める。誰にでも憶えがあるだろう。
元気な息子たちはサッカーで活躍し、全国中学校サッカー大会に出場した。四国の松山で開催された大会には、グランドボイジャーで家族で応援に出掛けた。
「妻の実家の大阪にも、犬を乗せて、このクルマでよく行っていました。ゴルフワゴンと違って、長距離がとても楽なんですよ」
キャプテンシート、室内空間の広さ、左右スライドドアなどと併せて、リアシートにもエアコンの吹き出し口があり、グランドボイジャーを選んだ理由だという。でも、他に何か違うクルマと比較検討していたというわけではない。
アメリカのクルマが好きなのだろうか?
「アメリカのクルマは好きですよ。GT350を10年間持っていましたけど、開業資金のために手放しちゃいました」
田中さんはサラッと口にしたが、1966年型シェルビーGT350とは相当にマニアックなクルマである。フォード・マスタングのボディにSCCAプロダクションレース用エンジンと足回りを組み込んだロードゴーイングレースバージョンだ。
「ワトキンズグレン・サーキットで行われたシェルビー・アメリカンのイベントを観に行った時に、キャロル・シェルビーが運転するGT350Rの助手席に乗せてもらったこともありますよ」
またまた、スゴいことをサラッと口にする。アメリカ留学中には、勉学の傍ら、各地のトイショーなどを訪れ、ミニカーを買い漁ったりした。それを元に、開業前に日本でミニカーショップを3年間経営していたというユニークな経歴も田中さんは持っている。

所英男選手をはじめとする格闘技パンクラスの選手たちをよく連れて行くというレストランのハンバーグを頬張りながら、田中さんのクルマ遍歴をうかがう。格闘技選手たちは、田中さんのところに試合用のマウスピースを作りに来ている。
ホンダS600から日産フェアレディ(SR311)に行き、アバルト695SSなんて珍しいものに乗っていたこともある。わざわざ左ハンドルの日産ブルーバード(510)・2ドアセダンを手に入れて、リアシートなどを取り外し、白と赤に青の2本ストライプのBREカラーに塗り直して、筑波やもてぎなどのサーキットに走りに行ったりしている。
BREとは、Brock Racing Enterpriseの頭文字で、Brockとはアメリカ人レーシングドライバーのピート・ブロックのことだ。第4回日本グランプリに日野サムライというプロトタイプでエントリーしたが、些細な車両レギュレーション違反を問われて決勝に進出できなかったことで有名だ。
「510ブルーバードが好きなんじゃなくて、BREが好きなんです。ゴーイチマルじゃなくて、ファイブテンなんです。ハハハハハハッ」
そんなアメリカ好き、アメリカ車好きの田中さんが選んだグランドボイジャーは、医院への横浜の自宅からの通勤や帰省、キャンプ、子供のサッカーなどに用いられている。
猫っ可愛がられたりせず、実用的に使い込まれているから、相応の経年変化も認められる。それでも、助手席の乗り心地はとても快適で、これならば田中さんの言う通り、長距離走行は楽に違いない。ギスギス、セコセコせずに、空間の取り方に余裕があり、路面からの動きのいなし方にもヨーロッパ車とは違う鷹揚さが感じられる。
「大きなトラブルは、発生していません」
思い出してもらうと、6万キロ時にギアがローのまま走り続け、シフトアップしない症状が起こったが、クレーム処理で直った。また、2年前にラジエーターから水漏れが起こり、約7万円を支払って交換した。最近では、アイドリング不整とエンジンオイルの滲みが起きている。
「壊れないクルマで助かりましたよ」
気に入って乗り続けているわけだが、買い替えられるのなら買い替えたいそうだ。
「儲かっていたら、新しいボイジャーに買い替えていますよ」
繁盛しているように見えるのだが……。
「僕が考える理想の歯科医師像と現実には隔たりがあって、なかなか儲かるようにはならないんですよ」
田中さんは優しく苦笑するが、聞けば聞くほど歯科医院の経営は難しく厳しい。
「もともと、治療は好きじゃないんです。特に、患者が痛がる治療は、やっている方もイヤじゃないですか」
でも、歯を治療しない歯医者なんて矛盾している。
「理想は、歯を虫歯や外傷から守って、予防することなんですよ。人工的な治療を施した歯というのは、養分も行き届かず、いずれは壊れていきます。格闘技や他のスポーツ選手のためにマウスピースを作っているのも、歯を外傷から守るという予防治療の一環です」
でも、予防だけ行っていたら、今の日本の医療制度ではお金ならない。
「歯を削って、何か詰めないことには経営が成り立たないような構造にあるんです」
クルマが故障したり、消耗したりしないと自動車工場の仕事が発生しなくなるのと同じことだ。
「経営は厳しくなりますけれど、ウチでは予防治療に力を入れています」
小児歯科ではないのだが、“歯磨き道場”と題して子供たちに歯磨きの重要性を教え、スポーツ選手のためにマウスピースを作っている。どちらも予防治療だ。楽しく競わせながら正しい歯磨きの習慣を身に付かせるために、子供たちの顔写真が診察室に張り出され、パンクラスのポスターも張られている。みんな朗らかな顔をしている。
田中さんはグランドボイジャーにもう少し乗り続けなければならないのかもしれないが、ここに写っている患者と選手たちのにこやかな笑顔を励みにしているのだろう。
『NAVI』誌2007年6月号より転載




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●グランドボイジャーとは?
1983年に初代がデビューしたクライスラーのミニバン「ボイジャー」の全長とホイールベースを延ばしたもの。アメリカでは、「プリムス・ボイジャー」と「ダッジ・キャラバン」と呼ばれる。田中さんのLEは前輪駆動だが、4輪駆動版も存在する。もともと、クライスラーはフルサイズバンの「ダッジ・ラムバン」をヒットさせていたが、ひと回り小さなミニバンを乗用車ベースで開発した。それが、ボイジャーだ。前輪駆動サルーンのプラットフォームを用いることで、快適性と走行安定性に優れていた。1992年からは、シュタイヤー・プフ社(クライスラー買収に手を挙げている、現在のマグナ・インターナショナル社!)のオーストリア工場で生産されるようにもなり、ヨーロッパでもよく見掛ける。
11話
洗い張りされた赤いちゃんちゃんこ
酒井達彦さんとランチア・デルタ・HFインテグラーレ・エヴォルツィオーネ2(1995年型)
12年 15万km
久しぶりに酒井達彦さんにメールを差し上げると、長文の返信が来た。酒井さんは、取材時にランチア・デルタインテグラーレのエヴォ2に12年13万6000km、それもお父上と一緒に乗られていた。
ご自身とお父上とインテグラーレのその後の様子が丁寧な文章によって画像付きで綴られていたので、ここに引用させていただきたい。
「お会いしてから、4年半位たちましたが、走行距離は1万キロ増えたくらいです。それまで、年に1万キロ以上乗っていたことを考えると(ペースは)1/5くらいになってしまいました。
父親は大病を患い手術をしたことと、今年77才になったこともあり、以前車を乗る最大の口実のゴルフも1年前くらいから止めてしまいました。
私も、2010年4月からタイのバンコクに二度目の駐在となり、結局ここ二年はほとんど動かしていない状態となりました。
実質車がなくても生活にはふたりとも、全く支障はないのですが、やはりこのデルタを手放すのはお互いになにか物寂しいものもあり、以前から面倒見てもらっている埼玉のB‘s GRAGEさんがこの乗らない状態を知った上で、年に二回調子を見てもらっています。
先日も帰ってデルタに火を入れましたが、さほどムズガルことも無くエンジンはかかりました。ただ、オイルが上がっていたのか、かかった瞬間に2サイクルエンジンのように一瞬モウモウと白煙出したのには少し驚きましたが。
近場をぐるりと回って感じたのは、移動具としては現在バンコクで社用車で使っている、カローラアルティス1.8L ATの足下にも及ばない位、すべてがクラシックになってしまったということです。
ボディもきしむし、クラッチやミッション、ハンドルすべてが重く前時代的な感じでした。
しかしながら、ハンドリングやエンジンの抜けなど官能に訴える部分、走ることや操ることの楽しみは、カローラではまったく味わえないもので、古い表現ですがまさに血湧き肉踊るといった感覚を数分で引き出してくれました。
今年の欧州の自動車ショーでも、欧州メーカーはこの厳しい時期でもスポーツカーや、スポーツ仕様のバリエーションを沢山紹介しています。モーターサイクルも現在欧米共に大変厳しい市場環境です。でも私はデルタに乗る度に、時代がどんなに変わっていってもやはり走る楽しみを無くしてはいけないのではないかと、自問自答しています」
海外駐在中だけれども、日本に置いてきたインテグラーレへの酒井さんの想いが伝わってくる。

