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「10年10万kmストーリー」アーカイブ(1話〜7話)

いまは無き『NAVI』誌で、1990年3月号から2010年2月号まで、二度にわたって長期連載していた「10年10万kmストーリー」は4冊の単行本にまとめられている。
しかし、まだ収められていないストーリーがたくさんあり、切り抜きを収めたスクラップブックをときどき引っ繰り返してはパラパラやっていると、その後のみなさんの様子が気になってくる。
変わらず元気に過ごしているのか?
まだ乗り続けているのか?
それとも、他のクルマに乗り換えてしまったのか?

目次(読みたい話をクリックしてください)

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1話

ビバリーヒルズの決意

仲本幸男さんとBMW635CSi(1985年型)
22年 9万2000km
      

BMW635CSiに乗り続けていた仲本幸男さんに電話してみたら、変わらずお元気な様子だった。635CSiも快調に走っていて、取材に訪れた時と変わらず、奥様と一緒に美容院を切り盛りされていた。
「この暑いのに、クーラーの調子が悪くて、ダマしダマし乗っていますわ」

この夏は、関西もとても暑かったそうだ。

カーナビを新調した以外、635CSi自体に変わったところはない。

635CSiもさることながら、僕は仲本さんの41年前のJALパックのエピソードが大好きで、自分のことのように友人に紹介したりしていた。
もっと詳しく話を聞きたいので、再会を約束してもらった。

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●ポルシェ911の代わりにやって来た

 クルマの好みや、クルマに求めるものが変わる時がある。
 BMW635CSiを22年間で9万2000km乗り続けている仲本幸男さん(67歳)は、神戸で「美容室原宿モトコ」を経営し、今でも妻の紀子(もとこ)さんやスタッフと一緒に顧客の相手をしている現役美容師だ。635CSiに乗る前はポルシェ911に、その前はBMW520iに乗っていた。
「美容の仕事をし始めると、“美って何だろう?”、“美は、どうしたら作り出せるのだろう?”って考えるようになって、それがやがてモノ作りなどへの興味にもつながっていきました。520iにクルマの美を見出して買ったのです」
 520iに乗る前は、マツダ・ルーチェ1500、ファミリア1000、トヨタ・スポーツ800などに乗っていた。ルーチェ1500から520iとは、ずいぶんと奮発したものだ。
「店も軌道に乗ってきていましたからね。家内は中卒で美容師になり、東京の原宿で修行してきて、僕と結婚した時には、すでに一人前以上の働きをしていたから、頭が上がりません」
 店は繁盛し、520iを911に買い替えた。始業前に、阪神高速道路を大津インターまで走って、コーヒー一杯飲んで帰ってくるのが日課のようになっていた。
「ポルシェにはのめり込みました。速さと、ダイレクトな感覚に。9年間乗りましたけど、新型がさらに速くなって、もう僕には手に負えなくなっちゃいました」
 ちょうど、隣の輸入車販売店の社長から911を譲って欲しいと言われ始めていた。
「“代わりのクルマはウチが探すから”と持ってきたのが、このクルマです」
 635CSiは、香川県のBMWディーラーに一年間展示されていたデモカーだった。911は500万円で引き取られ、「たしか、3、400万円だか」追い金して、635CSiに。
「ポルシェもBMWも、“クルマの好きな人が作ってはるんやな”って思いますね。どっちも、“応えてくれる”んですよ。ポルシェは、乗る気になって運転すると応えてくれるし、BMWは触ってあげると、キチンとそれに応えて調子が出るんです」

 

●「応えてくれるから、いいね」

  仲本さんは、自分でできる手入れはなるべく自分で行うようにしている。それも、点検マニュアルに記載されているようなエンジンオイル交換のようなものから、ホイールを外してブレーキパッドの粉を掻き出す清掃まで、さまざまな作業を自分で行っている。
 大掛かりなものでは、ラジエーターとそのリザーブタンクを外し、内部を洗浄したりもする。カーナビとオーディオの本体は、運転席と助手席の下にそれぞれ設置した。今はもう使わなくなったアマチュア無線機も、ケースを自作して取り付けてある。後席の窓ガラスにはカーテンが渡してあって、面白い。
 さらに、ステアリングホイールは3シリーズ用に交換され、入手困難となったミシュランTRXのために、「たぶん、5シリーズのものらしい」ホイールを手当てし、違うタイヤを履かせている。ハルトゲのマフラーやアイバッハのダンパーとスプリングなどの取り付けは、さすがに専門ショップに依頼した。
 どの作業も、失礼ながら“凝りに凝った”という類のものではなく、ほのぼのした風情を漂わせている。635CSiのような高級車ともなれば、“でなければならない”式のオリジナル至上主義に凝り固まるのが一般的だろう。でも、仲本さんは、そんなつまらない既成概念は易々と飛び越えて、まるで動物と戯れるかのように、635CSiと付き合っている。
 仲本さんの言葉の中に、たびたび“応えてくれるから、いいね”と出てくるのは、こうやってさまざまなカタチで635CSiに触れると、狙い通りに仕上がるからだろう。自由に、自在に接することで、関係を深めていっている。
 635CSiのことを話す仲本さんは、実にうれしそうで、屈託がない。クルマのことだけでなく、家族のこと、仕事のこと、店のこと、友人のこと、趣味のゴルフやディンギーのことなどを、柔らかな関西弁で語る。表情が少しこわばり、遠い眼になったのは阪神淡路大震災のことに触れた時だけだ。635CSiは難を逃れたが、息子の幸裕さんの911はパレット式駐車場の中で、ツブれてしまった。
「震災でヒドくやられたけれど、ウチの家族は助かった。このクルマも、奇跡的に小さな傷だけで済んだ。今のBMWにはない工芸品的なインテリアや走りの良さ。よう止められんですわ」

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●一年間のLA滞在

 635CSiを駐車場に戻し、冷房のよく効いた、美容室近くの珈琲屋に入って続きを聞いた。
「クルマも美容も一緒で、日本は、アメリカやヨーロッパから10年は遅れていますね。長いこと培ったDNAからして違う。それらしいものはできるんやけど、まだまだ。昔よりは、だいぶマシになったけど」
 41年前に、仲本さんはJALパックでアメリカ・ロスアンゼルスへ観光旅行に出掛けた。大学卒業後に入った商社に勤めていた。
「向こうに渡って、美容師になった友達がいたんです。僕が泊まっていたホテルにMGで迎えに来てくれて、“ウチ来るか”って、彼のマンションに移って、そのまま一年間居ました」
 えっ、一年間もですか?
「彼とこから移民のためのアダルトスクールに通って、週末は、MGでラスベガスに出掛けたり、ホームパーティやったり、呼ばれたり。楽しくって、アッという間でした」
 JALパックは、どうしたんですか?
「そんなん、それっきりですよ。会社? 何も連絡しませんでした。親の縁故で入った会社だったから、親からは勘当されましたけど」
 飄々と喋るが、昔の人はスゴい。
 一年後のある日、ビバリーヒルズの友人の店で、仲本さんは決意した。
「日本に帰らんとアカンな」
 離婚して、働きに出なければならなくなった女性客の長い髪を、友人が短く切っていた。
「“これから大変かもしれないけど、君の人生はオレが変えたる。この髪型で胸張って歩け”って、友達は励ましながら切っていました。美容師が客の人生を変えるなんて。アメリカって、スゴいな。日本に、そんな美容師はいないな。僕にも、美容師できるかな? “オレがやっているんだから、できるさ”」
 仲本さんは帰国し、美容学校に通って、紀子さんと結婚した。
 ビバリーヒルズでの決意で美容師に転身し、成功。クルマを見る眼も変わり、520iと911を経て、635CSiへ。そして、震災。人生の転換点に連動するかたちで、クルマの好みやクルマに求めるものも変わってきた。もちろん、いいことばかりではなかっただろう。特に、震災で失われたものは計り知れない。だからこそ、ともに潜り抜けてきた635CSiとの絆は太くなるばかりなのだ。

『NAVI』誌2008年11月号より転載    (2012年10月1日)

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●BMW635CSiとは?
 3.0(2.5)CSiの後継車として1976年にデビューしたBMWの高級2ドア5人乗りクーペ。スタイリングのイメージも、3.0CSiのものを踏襲している。広いガラス窓と細いピラーで構成された台形型のグリーンハウスは、今でも個性的で魅力十分に見える。

エンジンは直列6気筒、サスペンションは前マクファーソンストラット、後セミトレーリングアームというBMW流で構成されていた。
途中、M1用DOHC6気筒が搭載されたM635CSiがシリーズに加わり、1989年まで長生きした。

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2話

お参りと食べ歩きの相棒

京谷則幸さんとホンダ・シビック1.7X(2001年型)8年 20万km      

 東日本大震災が発生して真っ先に安否を心配したのが京谷則幸さんとお母さんだった。なぜならば、福島の東京電力原子力発電所から30km圏内にお住まいだったからだ。
携帯電話に掛けてみると、近所の家族たちと一緒に長野県の仮設避難所にいた。
「3月11日の晩には身の回りのものだけを持って、大急ぎで逃げてきました」
もちろん、クルマどころの騒ぎではない。その時は、一日も早く戻れることを僕も願って電話を切った。
こうして記事を再掲載させてもらう許可をもらうために再び電話したら、京谷さんはとても元気だった。震災直後よりも声に張りがある。
「今は普通に暮らしていますよぉ」
 語尾を上げる独特の喋り方は、取材させてもらった時と変わらない。
避難命令が解除され、2011年10月に家に戻ってきていたのだ。地震によって家屋のあちこちを修復しなければならなかったが、母子ともに元通りの場所で暮らし直すことができた。
 しかし、勤めていた電子部品製造会社は他県に転出してしまったために職は失った。
「リストラされました」
 現在は派遣会社に登録し、さまざまな企業に出向いて働いている。
乗っていたシビックは20万kmを過ぎて、急にあちこちが壊れ始めた。駐停車時にトランスミッションの“N”から“P”に入らなくなったり、ヘッドライトが暗くなる症状が治まらなかった。ディーラーには修理する手間と費用は小さくないでしょうと見積もられたので、フィット15Xに買い替えることにした。ホンダ・ファンの京谷さんとしてはシビックの後継にふさわしいクルマとしてフィットを選んだのだ。
 だが、家の修復などで大きな荷物を頻繁に運ぶ必要からフィットでは小さいことが幸いすぐに判明し、注文をフィットシャトルに切り替えた。
 シビックと同じように左足でもスロットルペダルを踏めるようにする装具を装着し、今月末に納車される。京谷さんの元気な声の元の何割かは、自宅に戻れて新しいクルマを迎えることのできる喜びが占めているようなので僕もうれしくなった。

●障害者免許の限定条件

 下肢に障害を持つ人がクルマの運転免許を取る場合、限定条件が付けられる。右足が不自由な京谷則幸さん(43歳)に教えてもらうまで、知らなかった。
 条件とは、「運転できるクルマの車両総重量が1.5トン以下で、オートマチック(2ペダル)式であること」だ。
 重量ではなく、総重量であるところに要注意。総重量とは、重量に定員分の体重と燃料や油脂類を加えた数字だから、それで1.5トン以下というと選択肢が非常に限られてくる。
 京谷さんが18歳で運転免許を取得してから乗ったクルマたちは、すべてこの限定条件に従っていた。
 最初のクルマは、三代目のホンダ・シビック、通称「ワンダー・シビック」。
「キビキビと、よく走りました。デザインだけでなく、なにかクルマ全体から若々しい雰囲気が伝わって来ていました。あのシビックは今でも、大好きですね」
 もう一台シビックを乗り継ぎ、同じホンダのドマーニに乗り換えた。その頃には、シビックの車両総重量が1.5トンを越え、新型に乗り換えたくとも、できなくなってしまったのだ。
 ドマーニは落ち着いた乗り味の小型4ドアセダンだ。いいクルマだったが、大きな荷物が入らない。布を巻いた長さ2メートルの筒が運べないのだ。筒は母親が洋裁で使うために必要で、以前は父親が軽トラックのホンダ・ストリートで買いに行ってくれたが、父が亡くなってからは京谷さんが手伝わなければならなくなっていた。
「発表される新車はどんどん大きく重たくなっていくのに対して、法律は変わらないから、僕が乗れるクルマが減っていくばかりだったんですよ」

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●前例踏襲主義に怒る

 長距離を走るために、京谷さんは総重量1.5トンを超えるクルマに乗りたくなった。勤務する電子部品製造会社の休日に、他府県の神社仏閣などに参詣し、途中の道中で美味しいものを食べるのを楽しみにしているからだ。
 長距離を走っても疲労が少なく、燃費に優れたクルマに乗りたい。そのためには、限定条件を解除する試験を受け、合格しなければならない。合格して購入したシビック1.7Xに、京谷さんは8年20万km乗り続けている。
「この限定条件は、大昔に定められたものだから、もう現実的ではなくなっているんですね」
 総重量がたったの1.5トンに限られている根拠は、重たいクルマはその重さに比例して、ドライバーがブレーキを踏む力を多く必要とするから、という考え方だ。
「もう、今じゃ、大きく重たいクルマでもブレーキを踏む力に変わりはありませんからね」
 ブレーキサーボの装着は当たり前だし、最新のクルマの中には緊急ブレーキ時にクルマがそれを自動的に感知して踏力を高めてくれるアシスト機構さえ付いている。だから、総重量とブレーキの間に相関関係はほとんどないと断言できるのだ。
「昔はそうだったかもしれませんが、今のクルマは違う。それなのに、法律だけが現実から離れたまま、効力を発揮し続けている。おかしいですよ」
 現実に対応しない前例踏襲主義に、京谷さんは怒っている。限定解除試験に臨むために、まず、県の運転免許センターに出向き、申請。次に教習所で、8時間の教習を受けた後に、卒業検定に臨む。京谷さんは一発で合格したので、約8万円の出費で済んだ。
 スロットルペダルを左足で操作できる装具を装着し、パーキングブレーキをオフセットする改造を施した自分のクルマを持ち込んで教習を受けなければならないから、その分も考えれば負担は大きい。
 18歳で初めて運転免許を取得する時にも、あらかじめ改造したクルマを購入しておかなければならないのだ。
 装具は、通常のスロットルペダルの上に大きなオルガンペダル状のペダルを被せて固定し、それと同じ大きさのペダルをもう一枚ブレーキペダルとフットレストの間に立てて、2枚をシャフトで連結する。左右どちらのペダルを踏んでも、スロットルは開く。

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●長野の善光寺まで一日で往復

 合格後、限定条件が解除されて購入したシビック1.7Xにはとても満足している。母親の生地の筒も楽々入るし、高速走行も快適だ。ドマーニよりも燃費がいいのは、望外の喜びだった。
 ドマーニが11~14km/lだったのに対し、シビックは13~19km/lも走る。それも、レギュラーガソリン指定だ。数日前に茨城県の親類にお盆の挨拶に行った時に、渋滞気味の常磐自動車道を往復して、16.5km/lだった。
「燃費もいいし、乗り心地もいい。以前にも増して、シビックでの遠出が楽しくなりました」
 今年の夏前には、なんと長野の善光寺までの860kmを一日で往復した。燃費は、16km/l。
「寄り道しながら、片道7、8時間掛かりましたけど、疲れませんでした」
 信心深い京谷さんは以前から善光寺にお参りしていたが、今のシビックに乗る前は電車で訪れていた。
「でも、上野駅と東京駅では、乗り換えで構内を上がったり下がったりするのが多く、キツかったですね。やっぱり、クルマはドアツードアだから、負担が少なくて助かりますね」
 シビックは、おおむね快調に走り続けている。でも、5万km時点で、CVTを交換している。
「CVTから音がしていますね」
 購入先のホンダクリオ福島に定期点検に出した時、指摘された。発進時に時々エンストするようになっていたので、服部店長の勧めに従って、交換することにした。クレーム対象として扱ってくれたので、無償だった。
 また、今年に入って、いいタイヤと巡り会えた。それまで履いていたヨコハマ・エコスから同じヨコハマのデシベルに代えたところ、走りっぷりが大きく変わった。
「特に、高速道路でドッシリと安定するようになりました。同じクルマとは思えないほどです。燃費が5パーセントぐらい落ちましたが、断然、こっちを採りますね」
 休日の遠出の他、もちろん、日常の通勤や買い物など、シビックにはほぼ毎日乗っている。京谷さんの現在の暮らしぶりにシビックは過不足なく、ぴったりとフィットし働いてくれている。まだまだ乗り続けるつもりだ。
「ホンダには、これからもこのシビックのように長く乗り続けられるようなクルマを作って欲しいですね。私たちユーザーも、安さに簡単に飛び付かないようにしないと」
 インサイトには、すぐに試乗した。
「新幹線のシートみたいに貧弱な掛け心地で、ガッカリ。フィットで十分です。もし、給料が上がったら、ストリームRSTが候補に挙がりますかね」
 RSTは、3列シートをあえて2列にした通好みのモデルだ。
 京谷さんに会った数週間後に、メールをもらった。20万キロに達したという連絡だ。メーターを撮影した添付画像の200000という数字が滲んで見えるのは、うれしさで携帯電話がブレてしまったからだろう。

『NAVI』誌2009年12月号より転載    (2012年10月8日)

●ホンダ・シビック1.7Xとは?
 2000年に登場した七代目シビック。それまでの3ドアハッチバックボディをやめ、5ドアで背の高いミニバン風をまとってきた。中身も、インパネから生えたシフトレバーやフラットフロア、ウオークスルーシートアレンジメントなど、ミニバンのように車内空間を拡げようとしていた。従来タイプの3ドアハッチバックボディはヨーロッパ仕様だけに存在した。
 京谷さんの1.7Xは1.7リッター4気筒VTECエンジンとCVTミッションを組み合わせた前輪駆動モデル。世界的には販売は好調だったが、国内ではフィットの影響か低迷した。

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3話

音を乗せ、音が違う

水野久興さんとスバル・ドミンゴGX-X (1991年型)11年 4万km       

 水野久興さんに、記事のアーカイブ再掲載をお願いするメールを差し上げたら、長い文章が返って来た。
 ドミンゴは、ホンダ・モビリオに乗り換えられていた。その顛末とドミンゴへの想いがとても良く表現されているので、その一部を再掲載させていただく。
「先々代のサンバーから、また先代の初代ドミンゴと、30年近くスバルで乗り継いできたので大変こだわりは有ったのですがとうとう乗り換えてしまいました。
車の調子はエンジンなど走行系はいたって快調だったのですが、問題なのがエアコンで、完全に故障していて修理に20万近くかかるようでした。
この2年間エアコン無しでなんとか耐えてきましたが、夏前の車検でこの先また2年エアコン無しを考えて、さすがに買い替えを考えました。
車検とエアコン修理代をあわせたら、中古購入の方がよっぽど安いということで決断に至りました。
もう一つ、サンルーフの開口部分が腐食していて、相当の雨漏りがしていました。
今年の豪雨のことを考えると、そのままでしたらどうなっていたことか。

昔話ですが当時、僕がドミンゴ(そのまえはサンバーですが)を選んだきっかけは、学校を出て就職を考える時期にある友人から言われた一言に有ります。
普通に就職するか音楽の世界に入るか悩んでいた20才の頃、同じ音楽を目指す友達にいわれました。
『もしプロでやっていきたいなら、自分の楽器は自分で運べなければダメだ』
免許も車も無い自分は、すぐ教習所に通うことになり、それがこの道を選ぶ最後の一押しになりました。

当時、ミニバンというカテゴリーも無く荷物を運ぶとなると、ライトバン ハイエースみたいなものが主流でしたが、さすがに初めての車で大きな車はちょっと抵抗があり、それで選択したのが軽ワンボックス ということです。
免許を取り初めての運転が、バンドでプロモーションビデオをとるため横浜までの行程でした。
機材やメンバーを満載して初めての第三京浜は、すごくビビッたことを覚えています。
その後、車検にあわせて、1ランク上のドミンゴに乗り換えました。

そんな訳で、自分の人生とはすくなからず関わりのあった車ですが90年代くらいからのミニバンのブームで、自分のニーズにあった車種はいくらでも出てきました。
それでも乗り続けてきたのですが、最近では仕事上あまり楽器を積まないことが多くなりました。
というのも、昨今のコンピューターの進化で、バーチャルな楽器が主流になり運ぶのもノートパソコン1つで済むことが多くなりました。
データ転送で仕事が終わることさえ有ります。
自分の仕事上、マル必であったドミンゴの存在が薄くなっていました。

僕の場合、車ありきではなく、自分の生活にあわせての選択なので他の掲載の愛好家の皆様とくらべてなんともお恥ずかしい限りです。
10年10万kmの掲載にはあまりふさわしくないですね。
ただ、偶然の出会いにしろ自分の仕事や人生にすくなからず関わってくれたドミンゴは大変思い出深い車になりました。
そして、やはり自分はドミンゴのフォルムが好きで、こんどのモビリオを選んだのも、その面影をすこし感じるからではないかと思います。」

 水野さんは、ドミンゴはとても古いので、日本国内で中古車として販売されることはなく、どこか外国に輸出されてしまうのではないかと案じていた。
 輸出されたとしても、ドミンゴのスペースユーティリティの高さには、どこの国の人でも驚くと思いますよ。

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●今では、USBメモリーに

 デジタル技術の発達によって、音楽をめぐる状況は大きく変わった。特にこの10年、楽曲が制作、録音される過程において、コンピュータとその音楽ソフトが果たす役割が重要になってきた。
「スタジオでは、シンセサイザーというものは、もう存在しないと言ってもいいでしょう」
 昔は、ひとつの音色に対して一台のシンセサイザーが存在していた。だから、ミュージシャンには何台も必要だった。だが、現在は、パソコンと鍵盤だけで構わないという。
 水野久興さん(47歳)は、大学卒業後からキーボード奏者として活躍している。
 11年間で4万キロ乗り続けているスバル・ドミンゴは、2台目だ。ドミンゴは、もっぱらライブ会場やスタジオなどの仕事に行くのに使われている。2代目のカタチが気に入らなくて、わざわざ中古の初代を探して購入した。
 最初のドミンゴの前には、スバル・サンバーに乗っていた。運転免許証を取得して以来、スバルのワンボックスばかり3台を乗り継いできた。
「サンバーを焼き直したドミンゴにも乗り続けているのは、シンセサイザーとスピーカー、鍵盤などの周辺機器を積み込んで仕事に行くためです。ドミンゴは荷室のスペースが広くて、たくさん載るので重宝しています」
 最近では、水野さんも自宅で作曲した楽曲のデータをUSBメモリーに収め、電車でスタジオ入りすることが増えている。データ量が小さければ、メールに添付して事前に送っておくなんてこともあるくらいだ。
 技術の進歩は、凄まじい!
「ただし、ステージの場合はシンセサイザーを持っていきます。フリーズのリスクを負わないためです」
 シンセサイザーを知らない若いミュージシャンも出現し始めてきているから、パソコンとソフトの性能がいくら上がっても、水野さんの出番はなくならない。むしろ、増えている。
「いま、楽器が弾けなくても作曲はできます。でも、ミュージシャンが楽器のことを知らなくては、いい曲にはならないでしょう」
 いくらデジタル技術が発達しても、音楽を作るためには楽器が奏でる音に親しんでいなければならない。水野さんはデジタルの恩恵にあずかりつつも、音楽の本質を疎かにしない。

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●乗らないことで寿命を延ばす

 サンバーから始まり、ドミンゴを2台乗り続けているのは、パソコンではなくシンセサイザーを演奏することを大切にし続けている結果だ。時々の温泉旅行などにもドミンゴは駆り出されているが、ほとんどは仕事で乗られている。
「なるべく乗らないようにしているんですよ」
 あちこち調子の思わしくないところがあり、乗らないことで寿命を延ばそうとしている。ラジエーターの修理やエンジンオイル漏れを直した時には、いちいちエンジンを下ろさなければならなかった。手間取り、費用もかさんだ記憶が残っている。
「前後のデフがバカになっちゃって、ハンドルを一杯に切った時に、ギギギギギッて、停まりそうになることもあるんです。でも、ガリッとつながって自然に直るんですけど」
 マリンバ奏者の父と母と同居する自宅の一階にドミンゴは停められている。すぐ横が、グランドピアノやマリンバが置かれた父の部屋で、その奥の部屋に水野さんのシンセサイザーや各種の演奏機材がところ狭しと詰まっている。たくさんの楽譜集やLPレコード、CDなどが両方の共通点だが、パソコンが部屋の中心部にあるところが違う。
「シンセサイザーを積んでみましょうか?」
 幅50センチ、長さ150センチくらいの大きなシンセサイザーのケースを、水野さんは慣れた感じで部屋から運び出した。ケースの底にふたつのホイールが取り付けられたローラーの精密な様子に、プロフェッショナルユースの片鱗が表れていた。
「一台目は、バンパーが触れないくらい熱くなって、マフラーから蒸気っぽい白い煙を大量に撒き散らすようになって、14万キロでリタイヤさせました」
 リアバンパーを手前に引くとロックが外れ、中からエンジンが顔を覗かせる。水野さんは、両側に備わったスライドドアの左側を開け、2列目と3列目のシートを折り畳んだ。最近のミニバンのように、ワンアクションでシートがフルフラットに倒れるというわけではないが、簡単な操作で広大な荷室が生まれた。
「タイヤボックスが出っ張っていない分、無駄なスペースがないんです」
 その通り、リアフェンダーの膨らみが荷室に張り出していないから、真四角の空間が出現した。そこに、慣れた手付きでシンセサイザーを積み込む。あと10台くらい積み込めそうだ。天井のスピーカーがなければ、もっと空間は広がる。
「3列目だけ畳んで荷物を乗せ、2列目には誰か人を乗せて走る時が一番好きですね。ワイワイ話をしながら走ると楽しいじゃないですか」

●家内手工業的なスバル

 フルにシンセサイザーと機材を積載しなければならない時は、スピードが出ず、ブレーキも効かなくなる。
「空荷でも、腰が重い。出足が悪くて、ノロいですよ。でも、慣れちゃいましたから、普通のクルマに乗ると速すぎて怖いです。ハハハハハッ」
 リアバンパーの塗装が、ささくれのように禿げ掛かっている。何度か塗り直してみたが、元の姿に戻ってしまう。
「家内手工業的なところが、スバルらしくて好きですよ。今は、ダマしダマし乗っていますけど、新型ドミンゴが出たら、すぐに買い替えます。スバルの箱バンが好きなんです。昔のホンダのステップワゴンが好きだったんですけど、免許を取った時には中古車すら、もう出回っていませんでした。それで、サンバーを」
 初代ステップワゴンのように、ノーズが少し前に出たワンボックスが好きなのだという。ドミンゴも、初代だけは飛び出している。
 ドミンゴは、3列シートや高い天井、両側スライドドア、フルタイム4輪駆動など現在のミニバンが声高に取り入れている仕掛けをとっくの昔に実現していた。いかにも、新技術と新機軸の導入に積極的なスバルらしい。今年になってエクシーガを投入したのは遅過ぎたが、ドミンゴは逆に早過ぎだったとも言える。
 車検はスバルディラーに出していて、費用は約20万円。
「音が違うって、仕事仲間から言われるんですよ」
 エンジンを掛けて聞こえてきた排気音は、ボッボッボッというパンチの効いたものだった。
「もしかすると、ゼロ戦もこういう音だったのかもしれない。そうだとすると、うれしいんだよね」
 水野さんに会った翌々日、迎賓館の前の赤信号で停まっていたら、X字型の変則交差点を四谷見附方面へ抜けていく水野さんのサンバーとすれ違った。荷物の量まで見えなかったけど、そんなに遅くはありませんでしたよッ、水野さん。

『NAVI』誌2009年1月号より転載  (2012年10月15日)

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●スバル・ドミンゴとは?
1983年に登場したスバルのミニバン。水冷直列3気筒1リッターエンジンをリアに搭載し、3列シートを備え、7人乗りを実現している。ボディは軽自動車のサンバーを少し拡大したもので、ホイールベースやトレッドなどはサンバー・トライ4WDにほぼ準じていた。
7人乗りとはいっても、前から2+2+3という座席レイアウトが、今日のミニバンと異なっている。エンジンは、86年に、1.2リッターに拡大。当初からラインナップされていた4WD版は88年にはフルタイム化され、90年に2代目にフルモデルチェンジした。

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4話

実質を尊んだ実用車の実力

野水秀一さんとアルファロメオ・アルファ146ti(1998年型)11年 20万km       

野水さんにメールを差し上げたら、146tiに乗り続けていた。取材時から3年半が経過して、約5万kmが追加された。ご丁寧に、積算計の画像まで送って下さった。

「あの後、オイルパンをぶつけて割ってしまい。修理したのが一番大きなトラブルと思います。
その影響でクラッチケースにクラックも見つかり、ついでに初クラッチ交換。

フューエルポンプも交換しましたが、最早、故障というより寿命だと思っています。

目下の悩みは、純正部品(エンジン周り以外)が見つかりにくくなった事かもしれません。
現在は足回り部品を探しているところで、足回り交換に向けタイヤは新品に交換済。
というところで、まだ乗り続ける予定です。後は自動車税も今年の春から上がりました。」

 野水さんの自宅前で、その積算計の距離数がちょうど20万kmに達したところを写真に撮ろうと行ったり来たりしたことを思い出した。雪国なので、道路以外はたっぷりと雪が積もっていた。二度目の独身生活を謳歌している(ように僕には見えた)野水さんの清々しさが雪のように白かった。

●ヨーロッパ車に乗りたかった

 日本車と輸入車。
 世界が小さくなり、経済のグローバリゼーション化が進んだ現在にあっても、ふたつには大きな違いが存在している、と考える。機械製造メーカーに勤務する野水秀一さん(40歳)も、その考えを抱いている。
 乗り続けているアルファロメオ・アルファ146tiが、それ以前に乗っていた日本車とあまりに違っていたことが、11年間で20万キロも乗り続けた原動力になっている。
 ホンダ・インテグラを2台乗り継いだ次のクルマとして、野水さんはヨーロッパのクルマを探し始めた。
「一度、ヨーロッパ車に乗ってみたかったんです」
 1990年代初頭から中盤に掛けての日本車は、野水さんにはコストダウンが眼に余って映っていた。仕事柄、自動車用などの機械製品のコストの掛け方を見抜くことができたからだ。
「コストダウンの方法も変わって来ていましたね。単に安いパーツに置き換え、作り方を単純化する従来からのコストダウンではなく、下請けメーカーに開発作業ごと丸投げするやり方が当たり前のように行われていっていました」
 中でも、野水さんが憤っているのが、シートやブレーキ、サスペンションなどの重要なパーツを自社で開発せず、代わりにヨーロッパの一流ブランド品を装着することを、さもありがたいものであるかのような商品企画だ。
「アフターマーケットで販売している“本物”を付けるのならまだ許せるのですが、自動車メーカー納入用の“別物”が装着されている例がとても多かった」
 二重の欺瞞ではないか。
「価格に対する価値を蔑ろにした姿勢に疑問を持ちました」
 日本車に幻滅した野水さんは輸入車の中から、4年15万キロ乗ったインテグラの後継を探すことにした

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●試乗しないで購入

 学生時代に、友人のフォルクスワーゲン・ゴルフGTIに乗せてもらって、とても面白かったが、その型のGTIはとっくの昔に生産が終了し、中古でも入手は難しかった。プジョー306やアルファロメオ145の高い評判を耳にしたが、野水さんは2ボックス車があまり好きではなかった。3ボックスのシルエットの方がバランスに優れるからだ。インテグラも、3ボックスの4ドア・ハードトップ(懐かしい!)版に乗っていた。
 145には、3ボックス車版の146があるはずだが、フィアット・ジャパンでは導入していなかった。
 145についても調べ、いいクルマらしいことはわかったが、3ボックスの146の存在を知ってしまうと、諦めることはできなくなってしまった。そんな折りに、NAVI誌上で、埼玉県入間郡のガレージエストの広告を見付け、146tiの並行輸入車が売られていることを発見した。
 並行輸入車ゆえのこともあり、146tiには試乗しないで購入した。382万円と、決して安くはない。勤めている会社の労働組合員向けの自動車ローンを利用した。金利3.9パーセントの120回払い。なんと、10年間もの超長期ローンだ。
 購入以来、往復13キロの通勤のほか、ほぼ毎日の日常生活すべてに146tiを利用している。
「146tiは実用車です。ロールは大きいけれど、乗り心地が良くて、長距離でも疲れない。運転している実感があって、飽きません。日本車は実感が薄く、飽きる」
 たしかに、146tiは実用車だ。後席に座ったり、テールゲートを開けたりしたが、家族とともにさまざまな使い方に対応できるよう作られた、実質を尊んだ実用車であることを改めて実感させられた。
「実用車なのに、アルファロメオらしくデザインされている。でも、日本車は実用車と呼ばれた途端、デザインが施されなくなる」
 それはクルマについての話だけではなく、イタリア人が衣食住すべてにわたって美を追求し、カッコ良く生きようとしているからだ。野水さんは、146tiに乗り続けることによって、日本とイタリアの文化の違い、人間と人生に対する姿勢の違いを体得した。
「でも、日本で使用される環境が違うからなのかもしれませんが、機械的な耐久性や品質面では、劣っていましたね。ハハハハハハッ」

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●飽きさせない工夫

 10年間にいくつかもトラブルが発生したが、最大のものはコネクティングロッドの焼き付きだ。購入して2年目、走行4万4000キロぐらいで起きた。
「カチカチカチッという音が聞こえて来たと思ったら、走行中にエンジンが停まりました」
 トランスポーターでガレージエスとまで運び込み、修理に3ヶ月も要した。分解して、ビッグエンドのメタルが焼き付いていることは判明したが、その理由はわからなかった。
「“これがイタリア車というものなのか!”と驚かされもし、同時に“走行中にエンジンが焼き付いて停止するような自動車の設計って、何なんだッ”て呆れもしました」
 他にも、補機ベルトが外れ、パワーステアリングのオイルラインに亀裂が入って漏れ出したりした。
 自分で修理するために、東京四谷のイタリア自動車雑貨店で整備マニュアルを購入した。分厚いファイルが全4冊で、約5万円。
 問題が発生すると、まず、ガレージエストに電話で相談する。自分でできそうなことがわかると、パーツを代引きの宅配便で送ってもらい、自宅横のガレージで作業している。
「ドアハンドルとミラーは自分で塗り直しましたけど、最近、アルファレッドのカラーコードが“130”から“290”に変わりましたね」
 ラジエーターのファンが高速モードで回り続けて停まらなくなった時は、アルファロメオ新潟にダイアグノーシス診断を依頼した。代金を請求されなかったが、申し訳ないのでファンレジスターとリレー交換を頼んだ
 3年前に独身になり、クルマと荷物が減って、その分スペースに余裕のできたガレージには、ホンダCB400SuperFourとヤマハYB1の2台のバイクの他、整備用工具や自転車、スキー板などがところ狭しと並んでいる。超長期ローンは完済したが、146tiに代わるクルマが見当たらないという。
「代えたいとも考えていません。だから、2台目としてアルファ・スパイダーを物色中です」
 最近も、89万円で売りに出ていた'99年型を横浜まで見に行った。
 野水さんは自動車部品や機械部品設計のプロフェッショナルだし、自分で修理もできるから146tiに乗り続けているのだろうか。違うと思う。146tiの設計に疑問を抱きながらも乗り続けているということは、それ以上の魅力を持っているからではないか。野水さんが“飽きない”という言葉で表現したように、日本車ではかなわなかったヨーロッパの小型実用車が、まだ実力を発揮し続けているのだ。

『NAVI』誌2009年4月号より転載    (2012年10月22日)

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●アルファ146tiとは?
 古くは、アルファスッド、その次の33に続くアルファロメオのベーシックカー。2ボックス型の145が先行して発表され、3ボックス版の146は1年後の1995年に発表された。145と146とのデザイン的な関連は強くなく、似て見えるのはフロントフェイスぐらいだ。サイドやリアビューは、違った印象を与える。1.3から2リッターまでの4気筒で前輪を駆動。フィアット系の直列4気筒とアルファスッド系の水平対向4気筒が存在した。2000年まで製造され、後継はアルファ147。今年は、さらに小さなミートが出る。

アンカー 5

5話

ジワッと、違う世界を知る

小野雄司さんとホンダ・インサイト(1999年型)4年 12万7000km       

小野雄司さんは、初代インサイトに乗り続けていた。再掲載の許可を請うメールを差し上げると返信はすぐに来て、変わらず快調に走り続けている様子が記されていた。

「インサイトの近況などをお話します

まずは、自分の手で取り付けしたボッシュの補助ランプです
取材時のときより一回り以上大きなランプになっています
自分の中で、昔ラリーをしていた気持ちが生きつずけてるのか?
ごく普通のサイズでは飽き足らず、競技用のボッシュに改装しています
添付の写真では黄色ですが最初は白レンズでした、高速を走行してるときに石が飛んできたようで割れてしまいました、半年後ヤフオクでやっと見つけたのはこの黄色でした・・・ちょっと赤いボディから浮いているように見えてしまってますが一段と個性的になっているインサイトになっているかな?と思います。

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栃木県にホンダの高根沢工場が以前にありそこから生まれた「NSX S2000 インサイト」の三車種が春の桜が咲く頃にツインリング茂木に集まる「TAFミート」と言う集まりに参加などをしております、普段ではめったに見ることができないインサイトがたくさん集まる姿は鳥肌てきな思いで満たされてきました。
 
インサイトの車体そのものは非常に調子は良くて、オイルの管理とガソリンを満たしているだけです
今年になって20万キロを越えた頃にサスペンションと足回りのゴムブッシュを取替えまして満足な状態を維持しています。
インサイトの第二の心臓部、IMAバッテリーは20万キロ無交換で走っています
非常に珍しく稀で当たりのバッテリーのようですね。
 
燃費は車載の生涯燃費計は26.4km/lを示してます。
最近24ヶ月の燃費は28.7を示してます。」

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●瞬間的な好燃費には意味がない

 いま注文しても納車は来年になるというトヨタ・プリウスほどではないが、ホンダ・インサイトも生産工場のラインを増やすなどして、国内の旺盛な需要に応えている。
 しかし、そんな人気者のインサイトも、旧型は売れ行きが芳しくなかった。旧型インサイトに4年弱で12万7000km乗り続けている小野雄司さん(53歳)が購入した個体は、生産されてから2年間ナンバーが付かず、その後の2年3ヶ月間はディーラーのデモカーとして1万キロを走行してきたほどだ。その後、オートテラスという中古車店のサイトで売りに出されていたところを小野さんが見付け、140万円で購入。
 走行距離1万キロの割には格安だったので飛びついたが、納車数日後にハイブリッドシステムを司るIMAバッテリーの交換を余儀なくされた。赤信号で停車時にアイドリングストップするところまでは良かったのだが、再始動しないことが続けて起きたのだ。
「シフトレバーをニュートラルに戻し、キーをひねって自分で始動しました」
 メーターパネル内のバッテリー残量計が、走行しても増減しないという前兆も起きていた。近くのホンダのディーラーに持ち込むと、保証期間が過ぎているのに無償で交換してくれた。有償だったら、23、24万円もする。
「1万キロでダメになるなんて、いくらなんでも短過ぎじゃないですか」
 乗り方にもよるのだろうが、普通のクルマのバッテリーとは違う消耗の仕方をするのではないだろうか。
「“インサイトのIMAバッテリーは、全車、無償で交換されている”という噂話も聞いたことがあります。その後、CVTも無償交換してもらえましたし」
 10万1000キロ走った時に、不調で持ち込んだディーラーで無償で交換された。
「スロットルを戻すと、ガクッというショックのあと、ギャーッという大きな音がするようになったのです」
 CVTに問題が発生していて、異音はベルトからのものだったのではないか。交換後、症状は消え去り、燃費もカタログ値を大きく超える38.4km/lを出した。常磐高速道路の土浦ICと那珂湊IC間の往復でのことだった。
「今までで最良の値だったので、クルマを停めて燃費計を撮影しようとしたら、シャッターを切る寸前にエンジンが掛かって、38.4km/lだったのが38.3km/lに変わっちゃいました。ハハハハハハッ」
 それにしても、高速道路での走行とはいえ、38.4km/lとはスゴい。小野さんは、高速道路でなくても、下り勾配が続く道を一定のペースで走れば、好燃費になると言う。秋田県の角館から田沢湖に至る国道46号線を走った時には、燃費計の最大表示値である60km/lに達することもあった。
「瞬間的な好燃費には、あまり意味はないと思います。大切なのは、多様な状況での長距離を走った後に、好燃費であるということではないでしょうか」
 大いに同感だ。0.1km/lでも燃費が良いに越したことはないのだが、それが目的となってしまっては本末転倒だ。
快適に、安全に、荷物や人を乗せた上での好燃費でなければリアリティがない。数字だけがひとり歩きしてしまっては、ナンセンス!
「最悪のパターンは、真夏にエアコンを効かせて、ボールを6個載せて、東京の田町ハイレーンに向かう時です。15~16km/lです」
 田町ハイレーンというのは有名なボウリング場のことで、小野さんは国体の茨城県代表にもなったことがあるほどのボウリングのエキスパートだ。お嬢さんも国体選手で、小野さんは日本体育協会公認スポーツ指導者の資格まで持っている。
 ボウリングが国体の種目になっていることも、選手が試合に6個ものボールを持参することも知らずに驚かされたが、インサイトへの積み方にもビックリさせられた。
 インサイトのシートのうしろにはIMSバッテリーとコントロールユニットが搭載されている。その上にはボードが被さり、天地寸法が浅いながらも、トランクスペースが設けられている。バッテリーの後ろ側のボードはフタとして開閉できる、容量43リッターの「パーソナルボックス」なるモノ入れ箱だ。小野さんはこの箱とスペアタイヤを取り去り、奥に広がった空間を巧みに利用して、密輸犯のようにボールケースをふたつ収めて運んでいる。フタとケースを開けなければ、まさかボウリングのボールが収まっているなんて、誰も想像できないだろう。

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●自分のクルマは自分で変える

 インサイトには、さまざまな改造が施されている。ひと目見て他のインサイトと違うのは、フロントバンパーに埋め込まれたドライビングライトだろう。左右でカタチが微妙に違う。しゃがんで間近でよく見てみると、バンパーの曲線とライトの形状が一致せずに、わずかな隙間が空いている。でも、それをなんとか合わせようとして、薄いゴムをパッキン代わりにしているのだが、専用に作られたものではないために完全に塞ぐことができてはいない。ゴムのカタチも異なるから、余計に左右で見た目が異なっている。
 他にも、ヘッドライトをHIDに換えたり、シートをレカロ製に取り替えてある。いずれも、自分で行った。自分で使いやすいようにと、自由に改造した様子がうかがえてとても好感が持てた。クルマを、“自分のもの”にしているからだ。
「何でも自分で改造するのは、若い頃からそうしてきたからです」
 20代から30代に掛けて、小野さんは地方選手権のラリーをドライバーとして8年間戦った。カローラレビンやチェリークーペX1、サニー、ランサーなどを自分たちで改造してラリーカーに仕立てていた。
「昔は鉄バンパーだったから、ボルトとナットでラリー用のフォグライトやドライビングライトを追加できていましたけど、インサイトはプラスチックなのでドリルで穴を開けたんですよ」
 国体ボウラーにして、元ラリードライバー。スポーツマンなのである。

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●ガバッからジワッへ

「違う世界を知りました。(スロットルペダルの)踏み方で、燃費がこんなにも変わって来るなんて。ガバッて踏まないで、ジワッて踏む。先を見て、道路の勾配に合わせて、踏んだり、戻したり。右足が“燃費版のクルーズコントロール”になりましたよ」
 面白いのは、時速90キロで走っていたのを80キロに落としても、燃費は変わらないという小野さんの発見だ。
「リアトレッドの狭さゆえに、雨の日の高速道路の入退路で、リアタイヤがズルズルと滑ることがあります」
 さすがは、元ラリードライバー。指摘が具体的だ。
 ラリーカーから始まって、軽からSUV、ヨーロッパ車まで、小野さんはこれまで様々なクルマに乗って来ている。乗っていないのはミニバンぐらい。それだけクルマ好きで、自分で試してみないと気が済まない。だが、インサイトにはとても満足していて、他に乗ってみたいクルマも見当たらない。
「ウチのインサイトは、今のインサイトとは違う。名前だけが一緒」
 強いて言えば、5速MT版の同型インサイトか、来年2月に発表予定のホンダCR-Zだそうだ。小野さんの話を聞けば聞くほど、初代インサイトがいかに独創的だったかがわかってきた。

 

『NAVI』誌2009年9月号より転載   (2012年10月29日)

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●ホンダ・インサイトとは?
 1999年に発表されたホンダ初のハイブリッド車。アルミニウム製ボディを持つ2座席ボディに1リッター3気筒エンジンを搭載し、前輪を駆動する。アルミニウムを用いたのは軽量化のためで、820(850)kgに抑えられた。後ろにいくにしたがって強く絞り込まれた形状や各部の空力処理などによって0.25という空気抵抗係数を実現。軽量化と空力と組み合わされたホンダ独自の「IMA」ハイブリッドシステムによって、35km/l(10・15モード。5MT車)という優れた低燃費を達成した。小野さんのCVT車は32・0km/l。日本では人気薄の2座席クーペボディが災いしてか、販売はあまり振るわず、今年デビューした2代目が登場するまで、インターバルがあった。

アンカー 6
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6話

朝陽で目覚め、すぐに行動開始

若山泰生さんとトヨタ・ランドクルーザー(1987年型)

7年 11万6000km       

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若山泰生さんの携帯電話に掛けたら、呼び出し音が間延びしていていた。海外だ。
 悪いからメールに切り換えようとしたら、いつもの感じですぐに出た。ノルウェーに出張中。若山さんが経営している会社が今年からノルウェーの「NORRONA」(ノローナ)というアウトドアウェアと用品を輸入販売し始めたから、そこへでも行っていたのだろう。 他にも、スウェーデンの「HOUDINI」(フーディニ)やスイスの「ODLO」(オドゥロ)など、まだ日本ではあまり知られていないけど海外では有名というブランドを“発見”してくるのが得意で、過去にもそれでブレイクしたことがある。
日産リーフが発売された時に電気自動車の輝かしい未来に興奮しながら注文していたが、航続距離のカタログ値とのあまりの違いに戸惑っていた。自宅とオフィスとの往復では充電せずに帰宅できるが、途中で外出したら充電は必須だった。途中のサービスエリアなどでは並んで待たされることも多くなり、ディーラーに下取りを申し出ると、国からの補助金分が違約金として96万円の支払いを求められた。携帯電話のように、6年間は乗らなければならない“シバリ”が発生するからだ。
輝かしい未来は頓挫し、リーフは奥さんが自宅周辺だけで乗っている。
「だから、ランクルを手放さないで良かったんですよ」
若山さんは、またランドクルーザーに乗るようになった。

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●レカロシートで快適

 細く曲がりくねった鎌倉の住宅地の路地を、若山泰生さん(41歳)は7年11万6000km乗り続けているトヨタ・ランドクルーザーでスイスイと抜けていく。助手席に乗っていると、家の軒先や塀、対向車などにブツからないかヒヤヒヤさせられるが、本人はいたって平気なようだ。
「大きい割りに見通しがいいし、スゴく運転しやすいですよ」と言われても、5ナンバーサイズがギリギリにしか通らないように見える駐車場の入り口にも、切り返さずに入っていった。大したモンだ。
 若山さんは、街道沿いの中古車屋で89万円で買ったこのランクルに乗り続ける間で、さまざまなモディファイを施している。そのうちのひとつが、運転席と助手席のレカロシートだ。
「60系」と呼ばれるこの型のランクルはヘビーデューティなメカニズムを採用していて、フロントサスペンションはリーフスプリングを用いた非独立式だ。
悪路踏破力を最優先した設計だから、乗員の快適性などは二の次に考えられている。
 だから、ランクルや同時代のオフロード4輪駆動車では、ちょっとした路面の凹凸やクルマの挙動に応じて、タイヤとサスペンションの上下動が何倍にも増幅されたかのように車内が激しく揺すられる。運転しているドライバーは動きが予期できるからまだいいが、助手席はたまらない。
 しかし、若山さんのランクルの助手席では違う。揺すられはしているのだが、レカロシートがショックを吸収し、ホールドしてくれるから、身体があまり動かないのだ。クルマは動いているのに、自分は動かない。クルマとの一体感さえ、生じてくる。とても新鮮な感覚だ。はじめに運転席側に付けたものを助手席に移し、新しいものを運転席に取り付けた。
 他にも、容量の大きなダンパーに交換し、最低地上高を2インチ上げてある。ハンドルはモモ製に代え、ヘッドライトを明るいものに。

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●本田宗一郎の教え

「クルマには、あまり詳しくありません。川崎の“乗り物屋”さんという工場に面倒を見てもらっています」
 ヨーロッパからアウトドアスポーツ用品を輸入し、各地でショップや飲食店を経営する会社の社長として若山さんは東奔西走している。ランクルは、仕事のための足だ。
「日常的に乗るクルマは、“道具”です。ブツけても気にならない100万円ぐらいの中古車を、洗ったり磨いたりしないで乗りたい。でも、命を預けるクルマだから、ちゃんと使いたい」
 レカロシートやダンパーなどは、“ちゃんと使う”ためのものだ。“ちゃんと使う”ための、クルマに対する考え方が面白い。
「修理や整備代は、(クルマを使うために必要な総費用を)あとから分割払いにしているようなものです」
 2007年5月に、大規模な整備を施した。メーターの針が振り切れるところまで水温が上がったり、エアコンの不調が続いたりしていたからだ。
「“調子の悪いところ、いずれ悪くなりそうなところは全部やって下さい”って頼みました」
 本当は新品の「3F」型エンジンに載せ換えたかったのだが、すでに在庫が途切れていたので、2ヶ月掛けてパーツから組み上げてもらった。サスペンションや駆動系統も、オーバーホール。総額約300万円掛かったが、見積もり金額を見ても、躊躇はなかっ
た。古いクルマに施した大整備なのに、トヨタの保証が1年間付いたのにも驚いた。
 購入以来、年に一度(1ナンバー登録)の車検でも、整備工場に全幅の信頼を置いて任せている。
「“10万円以上掛かる時だけ、事前に連絡下さい”って言ってあって、それ以下の金額の整備や修理は、どんどんやっちゃってもらっています」
 クルマは好きで、興味と関心も大アリなのだが、コンディションの維持に関しては潔いくらいに任せ切っている。
「本田宗一郎の本に書いてあったことを実践しているんですよ。“本や取扱説明書は、自分で読む必要はない。わからないことがあったら、詳しい人に教えてもらえばいいんだ”って。だから、僕も、クルマのメカや整備について詳しくなろうとは考えていません」
 クルマは道具であるから、詳しくなる必要はないという若山さん流の割り切りだ。でも、割り切ってはいても、好みや自分なりの方向性ははっきりと持っている。
「道具プラスアルファでしょうね。“他人と同じ”はイヤだし、“当たり前”とか、“ふつう”じゃ、つまらない。“変わっている”と言われると、うれしいくらい」
 オーバーホールし、ちょくちょく細かなメインテナンスも要するくらいならば、いっそのこと新車を買えばいいじゃないか、という論理は通用しない。プラスアルファがあるからだ。

●真冬の八方尾根でも……

 出張先は、自然の中にあることが少なくない。よくランクルに泊まってしまう。取引先や従業員などが心配して、ホテルを勧めてくれたり、自宅に招んでくれたりするのではないか。
「車中泊が好きなんです。みんな、もうよくわかってくれていますよ。前も、会社のハイエースで、よく泊まっていましたから。ハハハハハハ」
 真冬の八方尾根でも、駐車場に停めたランクルのリアシートをフラットに畳み、ダウンのスリーピングバッグにもぐり込んで朝まで眠ってしまう。
「朝陽の明るさで目覚め、ドアを開けて外気に当たってすぐに動き始めるのがいいんです」
 車中泊ができるくらいだから、ランクルの車内空間は広く、見るからに居住性がよさそうだ。
「このクルマを誰かに運転してもらって、僕を迎えに来てもらう時なんかに走って来る姿を見ると、“カッコいいナ”って思っちゃいます」
 ブレーキの効きの悪さは改めることができていないが、車間距離を取ることを心掛けている。ガソリン残量メーターが付いていないので、首都高速横羽線でガス欠で停まったりした。
「買って6年ぐらい経つと、不満も不満ではなくなりました」
 レカロシートや300万円大整備などをはじめとするモディファイが功を奏したからだろう。
「エリシオンに乗った後で、このクルマに乗っても、不満がブリ返すことにはならないですね」
 家族用のホンダ・エリシオンはラクだが、もの足りない。マニュアルトランスミッションを駆使して操るランクルの楽しさの方が勝っている。エンジン音で判断して、変速タイミングには気を遣うようにしている。助手席から見ていると、ランクルは若山さんの身体の一部と化しているようだ。
「壊れたら、どうしよう。停まらないか、心配だ」
 古いクルマに長く乗り続けると聞いただけで過剰に心配する人が、最近は増えた。若山さんには、そんな素振りはまったくない。心配するより先に、実際に停まっちゃっているし。でも、それでひ弱になって乗り換えないところに、若山さんの柔軟で力強いクルマとの付き合い方が現れている。近付きすぎず、かといって遠避けすぎず、自分の価値観で乗っている。スポーツカーにも乗ってみたいと言っているが、この分だと、
当分、ランクルに乗り続けるのではないか。

 

『NAVI』誌2009年8月号より転載  (2012年11月7日)

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●トヨタ・ランドクルーザーとは?
 日本を代表するオフロード4輪駆動車。1954年から作り続けられ、その悪路走破力と耐久性の高さは、世界のあらゆる地域で非常に高い評価を受けている。多くのバリエーションが存在し、その中には、輸出専用のモデルもあり、最新型はレンジローバーばりの豪華高級路線にシフトしつつあるが、その価値に一点の曇りもない。アフリカ、中東、アジア、オセアニア、ロシアなどでは信仰的とも言える信頼が寄せられている。
 若山さんのランクルは、1980年から89年まで生産されていた60系の中でも、4ドアボディに「3F」型4リッター6気筒ガソリンエンジンを搭載し、丸形2灯ヘッドライト、フラットルーフ、観音開きバックドアという組み合わせの人気モデル。なお、「ランドクルーザー」という車名は、トヨタ車の中でクラウンよりも長い歴史を有している。

アンカー 7
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7話

納得できたものだけを長く使おう

堤明彦さんとメルセデスベンツ190E(1991年型)

19年 9万9000km       

 8月に夏の暑さがツラくなってくると、いつも堤明彦さんの自宅に取材した時のことを思い出す。「クルマは道具」という持論のもとに190Eを乗り続けていた堤さんにとって、「家も道具」なのである。出来合いで済まさず、目的と手段に吟味を重ねた家にお住まいだった。
 思い出すのは、「軒のヒサシを長めに取ると、直射日光をかなり遮れて暑くなりませんよ」というアドバイスだった。実に適確かつ実際的で感心させられたのだが、借家住まいの身が続いているので、未だに試すことができないでいる。
 記事の再掲載をお願いする電話をすると、堤さんはもう190Eには乗っていなかった。2010年に入ってから故障が頻発するようになり、13万kmあまりを走ったところで手放してしまった。
 ウオーターポンプ、ワイパーなどが続けて壊れた。旅行先の上高地でオルタネーターが故障して発電せず、向こうのヤナセでバッテリーを購入し、念のためにエアコンを掛けずに帰ってきたこともあった。
「だいぶカネが掛かりましたよ。でも、クルマはあくまでも道具なので、壊れてばかりいるクルマに乗り続けるわけにはいきません」
 でも、190Eとそれを生み出したメルセデスベンツの思想に強く共感していた堤さんに、代わりのクルマが見付かったのだろうか。もしかして、程度の良い190Eでも見付けてきたのだろうか?
「プリウスですよ。“これでいいのかな?”とも思いましたが、便利な道具です」
 190Eはトヨタが10万円で下取った。
「リッター20km走りますから、190Eより3倍くらい経済的です」
 プリウスを190Eの後継車としてでなく、まったく違うものとして捉えているようだ。
「道の感覚が伝わってくるのがメルセデスベンツでしたが、プリウスはヒューンという走行音で空を飛んでいるような感じです」
 堤さんは満更でもない感じだった。たしかに、プリウスは21世紀の道具としてのクルマかもしれない。

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●駐在中の楽しみ

 今から20年近く前、駐在先のサウジアラビアで、堤明彦さん(50歳)が日本から送られてくる新聞を楽しみにしていたのは、記事を読むためだけではなかった。
 メルセデスベンツ日本の広告を心待ちにしていたのだ。メルセデスベンツのクルマ造りのポリシーを巧みなキャッチコピーとボディコピーで伝えようとしたものを、憶えている人もいるのではないだろうか。
 長めのボディコピーは、噛んで含めるように書かれており、良く言えば啓蒙的。悪く言えば説教臭かったが、意図的に美辞麗句で終わらせない書き方が広告らしさを隠すのに成功していた。堤さんは、それらの広告を切り取り、一緒に帰国し、今でも大切に保存してある。
『メルセデスは高すぎますか?』のキャッチコピーで始まるものは、以下のように続いている。
『たしかに、私たちがお届けしている自動車の価格は、世の中全体から見るとかなり高いレベルにある。(中略)メルセデスは「価格を先に決めてから生まれる自動車」ではない』
 堤さんが、切り抜いてまで広告を取っておいたのは、帰国したら190Eを買うつもりだったからだ。 29歳で、石油化学プラントを輸出するためにサウジアラビアに駐在するまで、堤さんはいすゞジェミニに10年間乗っていた。
「“機械の道具”として最高と思っていたメルセデスに乗ってみたかったのです。91年に掲載された『メルセデスの嘘』という回には、感動しました」
 遠く日本を離れて読むメルセデスベンツ日本の広告は、選択が間違っていないことを証明してくれ、強く背中を押した。高価な4ドアセダンをまだ独身だった堤さんが購入することに、風当たりは強かった。
 まるで、そうした堤さんのようなポテンシャルユーザーを想定したかのような、次の広告もある。
『メルセデスは年配向きの自動車と、思われるのだろう』と題された広告がある。
『もしも、あなたの身近にいる若い人が、メルセデスを選んだとします。そのとき、あなたはまず、どんなことを感じますか? 年配の人なら納得する。でも、若い人だとなぜか妙な気持ちになる。そんなことはありませんか? メルセデスを、贅沢の限りを尽くしたクルマだと思っていたり、凝りに凝った趣味のクルマだと思っていたら、いますぐその考えは捨てて下さい』
 駐在中に、勃発した湾岸戦争に巻き込まれた。イラクがクエートに侵攻し、スカッドミサイルの射程距離の外まで逃げた。運転手付きのメルセデスを10台を雇い、駐在員全員で西へ2000km逃走した。
 メルセデスを最高の道具と考えるようになったキッカケは何だか思い出せないと堤さんは答えるが、この逃走劇もどこかでメルセデスへの信頼感をより強固にすることに作用しているのではないだろうか

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●190Eにシビレっ放し

 '89年の日本経済新聞に掲載された広告では、190Eの特別装備限定車の価格は485万円。当時でも、現在でも、32歳の独身商社マンが買うのには高価で、立派すぎるだろう。駐在手当が「十分に貯まった」ので、帰国後すぐにヤナセから新車で購入することができた。
 会社のヨット部に所属していたので、週末にはマリーナに通った。190Eは、期待通りに堤さんを魅了した。
「高速道路での路面に吸い付くような安定感の高さは、メチャクチャいいですよ。結婚して、妻に運転させても、“スピードを上げるほどに安定していく”と驚いていましたから」
 高速道路だけでなく、近所の買い物などでも190Eの実力の高さを知らされた。車内空間の広さも、乗り続けていくうちに実感していった。
「頭上に拳がひとつ入りますからね。最近のクルマは狭い。レクサスISは窮屈でした。同じトヨタでも、プロボックスは道具として優れていると感じました」
 190Eのテールライトも、感激させられたもののひとつだった。この頃のメルセデスに共通して、凹凸がハッキリしている。雪や泥を被っても、走行中の空気の流れによって拭い去り、後続車から見えにくくならないように造られている。知恵であり、技術であるが、商品としてのの説得力が高い。
「スロットルペダルが重い上に、2速からの発進ですから、一般道では、トロさが目立ちます。でも、それが“急発進をさせないため”という理由付けがキチンとなされているところにも、シビレちゃうんです」
 堤さんは190Eにシビレっ放しなのだ。それでも、不満に感じるところはないか訊ねると、堤さんは長考の末に答えた。
「エアコンの効きが弱くなってきたところですかねぇ。ガスは毎年補充しています」
 燃費も、高速道路で14km/l、一般道で6km/lと隔たりが大きいが、
「年間5000kmぐらいしか走らないので、あまり関係ないです」

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ヤナセに全幅の信頼を置いて

 190Eには、純正オプショナルの6連装CDチェンジャーが付けられているだけで、カーナビはない。他には、ずいぶんのちに、ヤナセでETCを付けただけ。
「“あと付けモノ”は汚いので、付けません」
 潔癖性で、ちょっとコンサバかな。でも、190Eを言葉通り“道具”と割り切っているので、ボディの細かなキズなどはタッチアップペイントを自ら塗って済ませている。
 しかし、メカニズムの手入れに関しては購入したヤナセに全幅の信頼を置き、任せている。
「ひとりの優秀なメカニックにずっと面倒を見てもらっています。今まで、大きなトラブルはありません」
 水漏れがひどくなってきたラジエーターを02年に、トランスミッションを07年に交換した。トランスミッションは純正リビルド品で45万9921円もした。
「インターネットで、もっと安い業者も見付けましたが、純正品にヤナセで交換する高価さには意味があると思っています。中途半端にケチったら、あとで損しちゃう」
 エンジンマウントやサスペンションのブッシュなどのゴム部品を交換したら、効き目が大きかった。
「元のゴム類が、いい感じにヤレているんですよ。乗り心地が新車並みに戻りますよ。このクルマは、手を入れながら長く乗るクルマなんです」
 堤さんは、クルマだけでなく、家や身の回りのものなど、納得できたものだけを長く使おうとしている。家は新築したばかりだが、3年間独学ののちに工務店を見付け、山まで木を見に行った。
「ボンネットの先端が見えると、安心して運転できますね」
 世田谷の細い路地を右に左に抜けながら、堤さんは190Eの優れたところを指摘する。たしかに、コンパクトな割に重厚な乗り心地は独特のものだ。もう、高価で、立派過ぎるようには見えない。

 

『NAVI』誌2009年11月号より転載    (2012年11月17日)

●メルセデスベンツ190Eとは?
 1982年のフランクフルト自動車ショーでデビューしたメルセデスベンツの本格的小型車。いわゆる5ナンバーサイズのボディに、当初は2リッター4気筒ガソリンエンジンを搭載して始まったが、5気筒ディーゼルや6気筒ガソリンなど、のちにさまざまなエンジンが搭載されることになる。小さくても、造りや仕上げなどは上級のメルセデスと何ら変わることがないところが、高く評価された。88年にマイナーチェンジを受け、93年に終了し、Cクラスにその座を譲るまで約190万台が生産された。

写真・三東サイ(全て) 

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